横浜の桜木町で開業医として活躍されている鈴木誠先生は、HIFU(ハイフ)という前立腺がんの治療法の“パイオニア”であり、2017年1月現在、神奈川で一番のHIFU症例数を更新し続けています。医師を目指した原点から医学部合格までの道のり、そして泌尿器科という天職との出会い。そしてこだわり続けるHIFUの魅力を語っていただきました。
最難関学府への入学に始まり、現在に至るまで一見華やかな経歴で彩られている鈴木先生。しかしお話を伺うと、一人の“医療人”として、愚直に医療を探求し続けている“求道者”でもありました。
高校時代に教育実習生や担任の先生の
言葉で東大医学部を目指す
丸川どんな子ども時代をすごされましたか?
鈴木誠先生(以下、鈴木誠)生まれは石川県の金沢市で、周りには医師になった人も、東大に行った人もいませんでした。当時から授業を全部聞いて、その場で理解しようっていう集中力のある子どもでした。授業中にボーッとすることはなかったですね。
丸川医師を目指すきっかけはありましたか?
鈴木誠高校で理系を選択したときの教育実習の先生がすごく素敵な女性で、その先生に「あなたは理III(東大医学部)に行きなさい」と言っていただいたのが医師になったきっかけです。また、担任の先生からは入学当時に「理III以外ならどこでも行ける」と言われていたのが、3年生になると「お前には理IIIしかない!」に変わっていて。
人に言われてその気になってしまったのですが、そう思って理IIIの情報を見ると、病院も教授も素晴らしいし、東大を目指してやってみようと。「やめておけ」と言う人もいないし、決めた後は余計なことを考えずにひたすら受験勉強に勤しみました。
丸川幼い頃から医師になる予感はあったのでしょうか?
鈴木誠いや、それはなかったですね・・・(しばし沈黙)。そういえば、小学校のときにおばあちゃんが入院しているのを、一日も欠かさずにお見舞いに行っていた記憶があります。
入退院を繰り返していてそのまま亡くなってしまったんですが、おばあちゃんが寝ているベッドの脇で毛布にくるまって寝て・・・病院にいるのがとても心地よかった気がします。昔から病院にいるのが好きだったのかもしれません。・・・何十年かぶりに思い出しました。
地元の環境が自分に合っていた
丸川医学部の受験にあたって、何か特別な勉強法などありましたか?
鈴木誠特別な勉強法ではありませんが、大学受験のときも医師国家試験のときも長く机の前に座っていられるのも才能だなと思いました。絶好調の時は、「頭に血が流れる」のがわかりましたよ。集中が研ぎ澄まされて、脳の血流が増える感覚。これで試験に落ちるんだったら浪人しても無理だなって思うくらい集中していました。
志望校は理IIIに絞っていたので、二次試験に出ない科目は一切手をつけないし教科書も開かないという徹底ぶりでした。「なんで勉強するの?」とか、余計なことは考えないようにして邁進していましたね。今思えば、田舎のピュアな少年でした。
丸川その後、東京大学医学部へ合格されるのですが、入学されて実際の雰囲気や環境はいかがでしたか?
鈴木誠当時、金沢には予備校はなくて、高校の先生が自宅で勉強を教えていたのでそこに通っていました。それが大学に入るとクラスメイトは皆、小さい頃から大学受験まで、全国模試なんかで名前だけはお互い知っているというような環境でした。無名の田舎から来た自分は小さくなっていましたね。
もし同じ能力や成績だったとしても、都会で小さい頃から常に順番や競争にさらされる環境だったとしたら、僕はきっと無理だったと思います。金沢の伸び伸びとした環境が、僕には合っていたと思います。
医師として看取りまで含めて
患者を全人的に診たかった
丸川医学部を卒業後、医師としてのキャリアをスタートされたわけですが、たくさんの科目の中で泌尿器科医を選んだ理由は何でしたか?
鈴木誠僕らの時代はいわゆる研修医制度がなかったので、卒業と同時に専門に分かれて、ほぼ全員がそのまま大学病院に籍を置く時代でした。
僕は「医者になったからには命に関わりたい、生死に関わりたい」という想いがありました。元々外科系が好きで、手先が器用だという自覚もあったので外科系だろうと考えていました。ただ外科はこれまた「我こそは」という人間が集まるところだったので競争が激しかったのです。そのような中で、泌尿器科は臓器の中では、生死に関わっていて、最初から最後まで、内科的な部分から最後は看取りまで含めて、全人的に診ることができます。
今も昔も、世の中の人は、泌尿器の病気にかかると「恥ずかしい病気」と捉えてしまい、人にも言えず二重につらい想いをする。そういう人たちを救いたいという気持ちがあって泌尿器科を選びました。キャリアの途中で専門科を変える医師も結構いる中で、泌尿器科を変えようと思ったことは一度もありません。そういう意味で、僕は泌尿器科医は天職だと思っています。
丸川泌尿器科医としてのキャリアを積まれる中で、一時臨床を離れてアメリカに留学されたとお聞きしていますが、大きな決断だったと思います。アメリカへの留学の動機は何だったのでしょうか
鈴木誠泌尿器科を選んだ当時から、海外留学は一つの目標でした。というのは、それまで臨床一筋だったのを3年間診療から離れて研究に没頭できるわけです。研究三昧で、その間は何も考えなくていいと。当初そう思って手を挙げてアメリカへ行きましたが、留学先は世界最大の民間研究機関で、朝から晩まで研究、研究で・・・実際は人生で最も働いたと思います。かなり大変でしたね。
ただ、最高の環境であれほど研究に没頭した時間は後にも先にもこの留学期間中しかありません。ファーストネームで呼び合うくらい親しかった同僚のブルース・ボイトラーは、その後ノーベル賞を受賞しました。本当に世界最高の環境だったと思います。
HIFUで患者さんに貢献するために
病院の”外”で活動を始める
丸川アメリカでの研究を終えて帰国後、診療中心の生活に戻られてどのような変化がありましたか?
鈴木誠帰国して間もなく地方の医療機関に勤めました。元々、地方に出て地域医療をやってみたいっていう気持ちがありました。都内の基幹病院を回っているだけではわからない医者の醍醐味というか。地域に一つしかない総合病院で、マッサージの患者さんから救命救急まで、それこそ「生まれるのも死ぬのもここの病院」というような場所でした。ものすごく忙しかったのですが、やりがいはありました。
丸川その後、いよいよHIFU(ハイフ)治療を始められたようですが、どのようなきっかけがありましたか?
鈴木誠地方から他の機関に移り医療を続けていたときからHIFU治療のことは知っていましたが、HIFU機器の性能が画期的に上がった時期がありました。
前立腺の癌の40%は手術で治りますが、後の60%は手術だけでは治りきらないんですね。手術を受けても治りきらず退院していく患者さんを見ていて、「何をやっているんだ」という悔しさは常に持っていました。
一般的な前立腺がんの手術だとかなり長い期間を入院する必要がある一方で、HIFUは1泊2日の治療で済みます。しかも治療の効果を比較するとほとんど差はありませんでした。その後の患者さんの人生でどちらがいいかと考えた結果、自分はHIFUに本格的に取り組むことを決めました。
ところが当時勤めていた病院が社会保険庁の病院で自費診療に対して非常に厳しく、病院の中でHIFUができなかったため、腹を決めて、病院の外でHIFUに本格的に取り組み始めました。
丸川HIFUとともに歩む覚悟を決められたわけですね。それからはどのような形でHIFU治療を続けていきましたか?
鈴木誠自分の勤めている病院の外でやらなければならなかったので、色々な伝手(つて)を頼って、同級生の有床診療所とか、後輩の勤めている病院とか、勤め先ではない医療機関で60症例くらいおこないました。HIFUの良いところは、200kg位の大きさの機器で、もちろん麻酔や全身管理の技術があった上でのことですが、ちょっとしたスペースがあれば全部僕一人で完結できます。これは僕の師匠に当たる内田豊昭教授にずっと教えていただいているスタイルでもありました。
丸川HIFU治療を行うために、診療以外のご苦労もあったのですね。
鈴木誠そうですね。今でこそ自費診療・自由診療に対する目は多少緩やかになりましたけど、自分が始めた当時はもっと厳しくて本当に苦労しましたね。
丸川苦労されて症例を重ねていく中で、開業は考えていましたか?
鈴木誠いえ、当時は考えていなくて、そのスタイルで続けていけると思っていました。ただちょうど政権交代の時期に自分が勤務していた病院がなくなるという話になり・・・結局は組織替えして今も存続しているのですが、当時は医者も看護師もこない、患者もこないような状況になりました。そのときに初めて、独立開業を考え始めました。そこからは同級生の開業で成功している姿を見たり、話を聞いたりして、段々と気持ちが固まっていきましたね。
丸川開業を決断されてから、準備は順調に進みましたか?
鈴木誠開業において先ずは場所が重要だと思い探していましたが、開業にあたってHIFU治療を重要視していたので、HIFUを受けた患者さんが身体を休めるために一泊できる環境がどうしても必要で、東京近辺の大きなホテルにはほとんど話をしに行きました。
ホテル側もお話をすると快く受け入れてくれるのですが、クリニックを開院できるような場所がどうしても確保できなくて。今のみなとみらいの場所に決まるまで2年ほどかかりました。
現在クリニックが入っているビルは上の階にホテルが併設されていて、クリニックとホテルのフロントが同じ階で直結しています。まさに僕が求めていた立地条件だったのです。僕のような個人で0(ゼロ)から始めるような人間には情報も入ってこないような場所だと思うのですが、本当に偶然が重なって情報をいただいて。この場所は本当に何かの縁としか言えないと感じています。
HIFU治療をおこなうために
ホテル隣接の立地条件での開業にこだわる
丸川開業場所も無事決まり、開業準備に入ったときはどのようなお気持ちでしたか?
鈴木誠初めてなことばっかりなので気持ちは高揚するし、忙しいし。でも今振り返れば、楽しかったですね。
丸川開業して、患者さんも順調に増えてらっしゃるとうかがっています。実際に開業されて良かったと思う点は何ですか?
鈴木誠おかげさまで、泌尿器科は1〜2週間先まで予約が埋まっているような状態です。僕くらいの年齢になると、同級生などはリタイアとか管理職として現場を離れる人も出てきている中で、僕は自分が信じた治療法を一生懸命、専念してやれる環境なので、思ったことができているのは幸せなのでしょうね。まだまだ仕事を辞めるということは考えていないので、これからどうなっていくのか楽しみです。
自分が好きで続けてきたことが
形になって評価される幸せ
丸川先生は何をしている時が一番楽しいですか?
鈴木誠グッドクエスチョンですね! 結局医療の話になりますが、泌尿器学会の総会の20名の講師のうちの1人に選ばれて、教育プログラムの中で全国から集まったお医者さんたちを前に講義をすることになりました。
日本には約75名泌尿器科の教授がいる中で、“町医者”の自分に白羽の矢が立って話させてもらえる。学生時代から好きだったことを誰に強制されるでもなくやっていったら、いつしか形になって評価されるようになっていました。現在、その講演準備が大変ではありますが、すごく楽しいというか、とても充実しています。
丸川最後に鈴木先生の今後の展望をお聞かせください
鈴木誠日々患者様と向き合うのに一生懸命で・・・ここからですよね。開業医でよく言うのは「診察室で死にたい」と。最期のときまで診療を続けたい。偉い先生方などが管理職で苦労されていたり、定年などでリタイアしていく中で、自分がどこまで診療できるのか考えることがあります。
僕は、自分がHIFU治療をおこなった患者さんには近況を伺うようにしています。ご家族から感謝の言葉をいただくこともありますし、中には前立腺がん患者であることを忘れてしまうくらい充実した生活を送られている方もいらっしゃいます。これからもそういった方を増やしていけるよう努めていきます。
- ・長く机の前に座っていられる集中力のある子だった
- ・志望校を定めたら余計なことは考えずに勉強に邁進した
- ・泌尿器科は内科的な部分から看取りまで、全人的に診ることができる
- ・泌尿器の病気で人にも言えずにつらい想いをしてる人たちを救いたい
- ・HIFUで患者さんを救うという目的があって開業した
- ・最期のときまで診療を続け、“天職”を全うしたい
鈴木誠 プロフィール1984年東京大学医学部卒業後、東京大学医学部付属病院及び関係病院にて一貫して泌尿器科を担当。1989年日本泌尿器科学会専門医、1993年日本泌尿器科学会認定指導医。1997年より2000年までThe Scripps Research Institute, Department of Molecular and Experimental Medicine(La Jolla,CA,USA)にてがん研究に従事し、アメリカ癌学会 Young Investigator Awardを2年連続で受賞。帰国後2010年4月に桜木町オーシャンクリニック(現:オーシャンクリニック)を開院、現在に至る。日本泌尿器科会専門医、日本泌尿器科学会認定指導医。
オーシャンクリニックのご案内
科目 | 泌尿器科・皮膚科 |
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住所 | 〒231-8331 神奈川県横浜市中区桜木町1-1-7 コレット・マーレみなとみらい3F |
診療日・時間 | 午前 9:30~13:00、午後 15:00~18:15、 土曜・日曜 9:30〜13:00 休診/土曜午後・日曜午後・祝日 ※泌尿器科のみ月曜(第2・4)、火曜(第1・3)、土曜午後、日曜休診 ※HIFU治療は上記の診察時間外でおこなうことがあります |
電話番号 | 045-641-0777(予約受付:0120-641-077) |
Web | http://www.socl.jp/ |
院長 | 鈴木 誠 |
開業 | 2010年 |
- 本原稿にある所属先、役職等の記載は2017年1月12日現在のものです
- 診療日、診療時間および連絡先などは公式サイトにてご確認ください