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茨城西南医療センター病院 外科科長 野﨑礼史先生

茨城西南医療センター病院 外科科長 野﨑礼史先生

世界で最も足の速い外科医を目指して。

区別
  • 勤務医
地域
茨城
科目
外科

茨城県西南部に位置する茨城西南医療センター病院。ここで外科科長の要職を務められているのが野﨑先生です。実は野﨑先生は、外科医とは別にアスリートとしての顔もお持ちです。それが陸上競技の短距離選手としての顔。野﨑先生にとっては、走るということは、医師として生きることにもつながっているそうです。その想いについて、伺いました。

医師という職業の素晴らしさに気づいた中学時代。

丹後お生まれは東京で、育ったのはつくば市だそうですね。

野﨑礼史先生(以下、野﨑)私は1977年に東京に生まれたんですが、2歳で現在のつくば市に引っ越してきました。

丹後研究学園都市ができた頃ですか。

野﨑そうです。父が燃料電池の研究者だったもので、研究学園都市ができたことに合わせて移住しました。2歳でしたから、東京での暮らしの記憶はまったくないです。代わりに、つくばの広大な土地に出現した人工的造形の街の姿を憶えています。

丹後医師を志すようになったのは、いつ頃からですか。

野﨑自分で口にするのはどうかとは思いますが、中学時代の私は勉強のよくできる頭のいい子だったんです。それで、自然と将来の選択肢として医者をイメージするようになりました。「社会や人の役に立ちたい、その上でちゃんと生計を立てれる」そういう仕事に就きたかったんです。高校時代からは陸上をやっていたこともあって、整形外科を目指そうかと考えていました。

(写真)茨城西南医療センター病院 外科科長 野﨑礼史先生
(写真)茨城西南医療センター病院 外科科長 野﨑礼史先生

丹後先生は今でも走られているそうですが、その原点は高校時代でしたか。

野﨑そうなんです。今は自称“日本一足の速い外科医”として、仕事の合間にトレーニングをしています。

丹後その話はぜひ後で詳しく聞かせてください。高校卒業後、筑波大学に入学されますが、外科を志したのはなぜですか。

野﨑大学6年生の時に母をがんで喪ったんです。筑波大の先生に手術していただいたんですが、私は何もできなかった。母親を助けてあげられなかったというそのときの思いが、外科を志望するようになったきっかけです。

低栄養状態に陥りがちな高齢者のために。

丹後現在、茨城西南医療センター病院で外科科長をお務めでいらっしゃいますね。

野﨑外科医として関連病院をいくつか経験し、筑波大学大学院で研究生活を送りました。その間、2度ほど茨城西南医療センター病院に勤務しました。4年前に再びこちらで働くことになり、以来、常勤として仕事をしています。こちらで働くのは、3度目になると思います。

丹後外科のお仕事以外にもNST(栄養サポートチーム)のチームリーダーをなさってると伺いましたが。

野﨑かつてこちらに勤務していたときに、NSTで一緒だった先生が退職されたことに伴い、私がNSTのリーダーを引き継ぐことになったんです。

(写真左)茨城西南医療センター病院での外科手術の様子
(写真左)茨城西南医療センター病院での外科手術の様子

丹後NSTは、特に高齢化が進んでいる地域では重要ですね。

野﨑その通りです。当院がある茨城県西部は非常に高齢化が進んでいます。栄養状態が悪くなると免疫力が弱まり、感染や合併症を引き起こしたり、傷口が治りにくくなったりします。特に高齢者は低栄養状態に陥りがちなので、健康な生活を維持する上でも、栄養状態の管理は重要なことです。病気になってからもそうですけれど、そうなる前からしっかり栄養をつけることも大切です。

丹後予防医学としての栄養管理ですね。

野﨑要はいかに長く健康寿命を維持するか、という点が重要なんです。そのため医師、管理栄養士、看護師、臨床検査技師、薬剤師などが専門知識を提供し合い、よりよい栄養管理を実現することが必要となってきます。

丹後そうした予防医学としての栄養管理への取り組みは、先生にとってはスポーツにも通じることなんですね。

野﨑そうなんですよ。スポーツや筋力トレーニング(筋トレ)で筋肉の衰えを防ぐことは、栄養状態を管理することと並んで、健康を維持する上で重要なことです。私にとってスポーツとは、健康寿命を延ばすことにも通じる取り組みでもあります。

筑波大学医学アイスホッケー部のOB戦にて(本人提供)
(写真)筑波大学時代に始めたアイスホッケーは現在も年数回で継続中(本人提供)

丹後なるほど、それで陸上競技を再び始められたと。

野﨑仕事のためってわけじゃないですが、36歳で陸上を再開しました。大学を卒業して以来ですから、およそ10年のブランクがありましたが、始めてみたらすっかりやみつきです。大学時代は主にアイスホッケーに没頭していたのですが、社会人になって手軽に身体を動かそうとすると場所や時間の制約が結構あるんですよね。アイスホッケーの練習は深夜に遠く離れたリンクに行かないとできないというのもあります。そういった意味で、陸上の良いところは短時間で鍛錬が積めて、しかも場所をあまり選ばないことですね。実際、私も病院の××室に筋トレの器具を置いて、空き時間にこっそり鍛えているほどです。

丹後あ、先生それはちょっとNGでは…

野﨑いや、私がやってるのを見て、みんなもこっそりやっていますよ。だからNGなのかもしれないけど…

高齢者が元気に走り回る世の中にしたい。

丹後36歳で陸上を再開されて、早くも37歳で競技会に出場されたそうですね。

野﨑ええ。マスターズのアジア大会で6位に入賞しました。まだまだ競技人口が少ないスポーツなので、35歳と40歳の部でいくつかの県記録を更新することができました。いずれ世界大会で優勝したいと思ってます。でも、その前に日本一にならないと、ですね。

丹後陸上競技の魅力とは何でしょうか。

野﨑結果が数字に表れることでしょうね。10秒は10秒であって、相対的じゃなくて絶対的な結果です。その明確な結果の出るところが魅力ですね。

マスターズ陸上大会での競技シーン
(写真)陸上大会の競技シーン

丹後では、走る爽快感とかは…

野﨑いや、それは自分にとって魅力ではないですね。むしろ練習は苦しいし、きついです。ちっとも爽快じゃない。

丹後それにしても体は相当絞られているようですし、とてもストイックで、求道者のような印象を受けます。

野﨑私は、人は自分が幸せでないと、他人を幸せにできないと考えています。われわれの職業は、患者さんを幸せにする職業ですから、まず自分が幸せにならないといけません。実は、陸上をというか筋トレをすると、脳から幸せホルモンが分泌されるんです。つまり、トレーニングをすることによって、患者さんをを幸せにできるんです。

丹後ご自身が幸せであることと、患者さんの幸せが繋がっているのですね。

野﨑私が “日本一足の速い外科医”どころか“世界一足の速い外科医”になれば相当のインパクトがあるでしょう。そうすれば、きっと私に影響を受けて「自分も走ってみよう」、「筋トレしてみよう」と思う高齢者を増やすことができるんじゃないでしょうか。その先にあるのは、高齢者が元気に走って筋トレをしてる、幸せな高齢社会で、それが私の夢でもあります。

丹後なるほど、遠大な夢があったんですね。

野﨑遠くない将来、おそらく医師が余ってくる時代が到来すると思います。そういう時代の中で、自分の価値をどう見出していくかを、真剣に考えなければならないと思っています。私は外科医ですが、手術ができるのは外科医として当たり前のことで、それ以外にいかに地域や社会に貢献できるかってことが大事なことだと思っています。私の場合、それが”走る”ということです。

このインタビューのまとめ

  • 社会の役に立てて、しっかり生計を立てられることが医師の魅力
  • 高齢者の健康維持に栄養管理と筋トレは重要
  • スポーツは健康寿命を延ばすことにも通じる
  • 走る人が増えれば社会は健康になっていく
  • 自分にしかできないことで、医師としての付加価値を高める

野崎礼史 プロフィール1977年、東京都生まれ、茨城県育ち。
2002年、筑波大学医学専門学群卒業。
現在、茨城西南医療センター病院 外科科長。研修医の指導も担う。
 
主な資格 日本外科学会専門医
日本がん治療認定医機構がん治療認定医
日本消化器外科学会専門医、指導医
日本静脈経腸栄養学会認定医
麻酔科標榜医
 
マスターズ陸上での主な実績 2014年 アジアマスターズ選手権M35/100m6位
2016年 関東マスターズ選手権M35/100m3位、200m1位
2017年 茨城県マスターズ選手権M40/60m1位、100m1位、400m1位

野﨑礼史先生の主な活動のご案内

所属機関名 茨城西南医療センター病院
住所 〒306-0433
茨城県猿島郡境町2190
Web
  • 本原稿にある所属先、役職等の記載は2017年6月15日現在のものです
  • 診療日、診療時間および連絡先などは公式サイトにてご確認ください
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取材日:2017.06.15

責任編集:桑畑 健/ライター:丹後 雅彦/撮影:茨城西南医療センター病院 広報課

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