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KKR 水府病院 看護師(新卒) 看護師(既卒)

KKR 水府病院

支え合う仲間がいるから、笑顔でいられる。

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「私もそうだったんだよ」の一言が勇気をくれた

「2人の子どもを保育園に預けて復職して、もうバタバタの3ヵ月でした。」

出産を機に別の病院を退職し、数年間のブランクの後に水府病院に勤務することにした飯田麻美。

写真:飯田 麻美
(写真)飯田 麻美/KKR水府病院 看護部/看護師/茨城県出身

以前勤務していたのはリハビリ病棟だったため、採血や点滴の経験もほとんどなかった。復職に際して水府病院を選んだのも、“看護師としてのスキルをしっかり身につけたい”との思いからだ。だが、周囲は飯田に対して「経験者だから」という期待の視線を向ける。
“バタバタの3ヵ月”は、そのプレッシャーに悩んだ3ヵ月でもあった。

「そんな私を“お姉さん”が支えてくれたんです。」

“お姉さん”とは、プリセプターのことである。先輩看護師が約2ヵ月、指導役として飯田をサポート。周囲の期待と自分の実力のギャップに悩む飯田を支えてくれた。

写真:飯田 麻美

「失敗したこと、悩んでいることなど、全部聞いてくれました。“私も最初は辛くて体の調子を崩したことがあったよ。みんな経験することだから心配しないで”って。もちろん私たちは人の生命を預かる仕事をしていますから、仕事では厳しく指導されます。ヒヤリ・ハットのヒューマンエラーはきつく叱られますし。でも、休憩時間は切り換えて子育ての話なんかで盛り上がったり。」

支えてくれるのはプリセプターだけではない。病棟の仲間、みんながチカラになってくれる。

「急患の受け入れも落ち着いてできるようになりたいし、患者様に“痛い”と言われずに採血できるようになりたい。でもできなくて落ち込んでいると、“そのうちできるようになるから”って皆が声をかけてくれるんです。だから私も前を向くことができる。」

写真:飯田 麻美

復職して変わったことは? と問うと「子どもに優しくなったと夫が言ってくれるんです」とはにかむ。

「日中、バタバタと忙しく過ごしているからなのか、家族との限られた時間を大切にするようになりました。ご飯も、以前よりしっかりつくってますよ。」

2ヵ月の指導期間を経て任を外れるとき、プリセプターは「今までありがとう。でも、これからも一緒だよ」と声をかけてくれたそうだ。その言葉どおり、彼女はことあるごとに「どうしてる?」と飯田に気を配ってくれる。

一人は皆のために、皆は一人のために。
「それは私も通った道だから」と、頑張る仲間を全員で支えてくれるのが、水府病院だ。

叱られることのありがたみを噛みしめながら

「ここには“お姉さん”がいて“お母さん”がいて“妹”もいるんです。福利厚生がしっかりしているから50代、60代でも働けるし、子育て世代をおばあちゃん世代が自然に応援する雰囲気があります。」

そう話す岡野聡美は30代。勤続10年で、“お姉さん”の立場だ。

(写真)岡野 聡美/KKR水府病院 看護部 オペ室所属/看護師/筑波大学医療技術短期大学部看護学科出身

「失敗すると、怒られます。30代なのに怒ってもらえるなんて、素晴らしいと思いませんか?」

確かにそうだ。
怒られるばかりではない。看護師として脂が乗ってきたお姉さん世代だから、つい自分のやり方に固執してしまうことがある。そんな時は「ちょっと違うんじゃない?」とやんわりたしなめられる。
仕事がうまくいって、つい鼻が伸びると大先輩が「まだまだよね」と、背中で諭してくれる。

そうした声に素直に耳を傾けられるのも、ベテランも若手と同じカレンダーで勤務しているから。50代の先輩が「ナースコールは私が取るからね」と率先して振る舞っているのだから、若手も自然とその姿に学ぼうとするのだ。

写真:岡野 聡美

時には衝突もするけれど、20も年の離れた人と本気でぶつかれるというのも、幸せなことだ。もちろん翌朝には何ごともなかったように笑顔で挨拶を交わせる。

「小さい病院だから、すごくアットホームなんですよ。長く勤めている人が多いから、仲間が家族のような感覚です。」

もちろん小さい病院ならではのハンデもある。特に看護師としてスキルを磨こうとすると、症例は限られ、どうしても限界が生じてくる。だから大切になってくるのが、自ら学ぼうとする姿勢だ。

岡野もその事実と向き合い、ステップアップを目指して、母校である筑波大学に通い始めたところだ。目的は特定看護師の資格取得である。

写真:岡野 聡美

「学費の半分を病院が出してくれました。経済的に軽い負担ではないので、とても助かっています。こんなふうに成長したいという志があれば、しっかりサポートしてくれるのが水府病院なんです。」

高校時代までは学校の教師を目指していた岡野が看護師を志すことにしたのは、ダウン症の親戚と接するうちに、人が苦しんでいるときに手を差し伸べられるようになりたいと思うようになったからだった。

「手を差し伸べるには、優しさと強さの両方を身につけなきゃ。」
優しさを院内での触れ合いから吸収し、強さを院外での学びに求めている岡野。その背中を、妹分である後輩たちはしっかりと見ている。

人を見よう。患者を、そして仲間を

水府病院に勤務して15年というベテランの渡邉理恵子は、7歳を筆頭に3人の子どもを育てながら働く主任だ。

子どもの頃からなぜか保健委員に選ばれることが多かった渡邉。「手に職を」との考えで看護師を志望し、特に憧れの看護師像もなく、看護学校で学んでもこれという看護観も持てなかったという。

写真:渡邉 理恵子
(写真)渡邉 理恵子/KKR水府病院 看護部 主任/看護師/茨城県出身

大学病院での勤務を経た後、実家のある水戸に転職先を求めて水府病院に入職。そして、ここであるべき看護師像に気づく。

「水府病院に来るまで、私は看護師でありながらベッドサイドにいても“人間”を見るのではなくて、“病気”を診ていました。ところが水府病院では誰もが患者様に寄り添って、脈を取ること一つに対しても全員が患者様への思いを共有しています。結果、バイタルを診るスキルは非常に高いと思いますよ。」

渡邉は、看護師になりたての新人時代に大ベテランの先輩に叱られたときのことを今も忘れない。とても怖い先輩だったという。

「“治療を考えると人間を後回しにしてしまう。そうじゃなくて、まず患者様のことを考えなさい”と何度も怒られました。その時は意味がわからなかったけれど、今はよくわかります」

主任という立場となって新人看護師に目を向けると、気持ちに余裕がないためか、つい技術が前面に出てしまっていることがよくわかる。例えば清拭でも、タオルを絞ることに集中してしまって患者を見ていない。

写真:渡邉 理恵子

「そうじゃないんだよということを、水府病院では先輩たちが自然に教える風土があります。師長だって配膳もするし清拭もする。だから、看護師として持つべき看護観を若手が無理なく吸収していけるんです。」

最近嬉しかったこととして渡邉はこんなエピソードを教えてくれた。
「10年以上前に担当した患者様と外来で偶然再会して“オレのこと、憶えてる?”と声をかけていただいたんです。10年以上経った今でも思い出してくださって、嬉しかったです」

写真:渡邉 理恵子

人を見る。
その視線に載った思いが届いたから、渡邉は記憶に残る看護師になれたのだろう。
ささやかだけれど、そんな喜びを後輩一人ひとりが味わってほしいと渡邉は考えている。

本原稿にある所属先、役職等の記載は2016年10月5日現在のものです

※本サイトでの募集は終了しております。
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責任編集:桑畑 健/ライター:丹後 雅彦/撮影:大籏 英武

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