未知の領域に飛び込み、新しい道を拓いてきた林田先生の“志”について、お話を伺いました。
若い頃の鍛錬は、医師になってから必ず自分の力になる。
丹後林田先生は1975年のお生まれですね。どんなご家庭でしたか。
林田健太郎先生(以下、林田)父が開業医でした。内科のクリニックで、いわゆる“町のかかりつけ医”として地域の皆さんから頼りにされていました。それこそ遅くまで患者さんを診たり、夜中にカバンを持って往診に行ったり。そんな父親の姿を幼い頃から見ていて、人を助ける素晴らしい仕事なんだと感じていました。だから私も漠然とですが、将来は医者になるんだと思うようになりました。その父も私が医者になって1年目に亡くなりましたが。
丹後そうでしたか。残念でしたね。
林田ええ。でも私が医者になった姿を見せてあげられたのはよかったです。
丹後お父様の背中を見て育ったことで、医療の道を志すことは先生にとってごく自然な選択肢だったわけですね。
林田父は「医者になれ」とか「跡を継げ」というようなことは一言も口にしませんでしたが、私自身は医学部に行くためには勉強ができなきゃいけないというので、中学時代から真剣に勉強を始めました。中学・高校と水泳部で都大会に出たりしましたけれど、基本的には勉強漬けの毎日を送る、とても真面目な子でしたよ。
丹後その後、慶応大学医学部に進学されました。
林田大学に入学してから、学部時代はほとんど授業には顔を出さなかったですね。医学部体育会のヨット部に入部して、普段は江ノ島でヨットに乗ってばかりいました。それで試験の直前だけ授業に出て、一夜漬けで勉強して、なんとか単位を取っていたんです。今は違うかもしれませんが、当時の医学部体育会の学生はみんなそれが当たり前っていう感じでした。きっと、そういう文化だったんでしょうね。
丹後医学部でヨット部なんて、さぞモテたんじゃないですか?
林田いや、これが全然モテなかった・・・。ヨット部の練習は本当にキツくて、そんな余裕はなかったです。ただ今振り返って思うのは、目標に向かって努力したり、辛くても投げ出さずに鍛錬したりといったことは、ヨットの練習で培われたということです。学生時代は授業にあまり出なかったけれど、医者になってからはものすごく勉強しました。どんなに厳しい勉強でも投げ出さずに乗り越えられたのは、やはりヨットで鍛えられたからだと思います。学生時代は人格形成の重要な時期ですから、勉強も大切ですが、努力すること、自分を鍛えることも大切ではないでしょうか。
好きな道を行くのだから、少しも辛いことはなかった。
丹後循環器内科に進もうと決めたのはいつ頃ですか。
林田大学1年の時から決めていました。救急対応もできるし内科的な治療も手術もできるということで、特に低侵襲治療の時代がいずれ来るという確信がありましたから、やるなら循環器内科と思いました。その中でも心臓です。心臓はとても複雑な作りのポンプとして、機能美というか非常にうまくできていると感心します。とても魅力的な臓器なんですよ。
丹後先生が確信を抱いていたように、今まさに低侵襲治療の時代が到来しましたね。
林田自分を信じて、興味のある道をどんどん進んで走って行けば、自然と道は拓けて、望んでいた場所に到達できるのではと思っています。信じた道をがむしゃらに進んでいくのは、とても大切なことだと思います。
丹後大学院修了後、足利赤十字病院の循環器内科に勤められました。
林田実はそこで私は“師匠”に巡り会えたんです。それがカテーテル治療の名医でいらっしゃる山根正久先生(現・埼玉石心会病院副院長)。山根先生に教わったことはたくさんありますが、特に患者さんに対して最後までとことん責任を取るという姿勢、常に世界を意識し、世界に向けて情報を発信しようとする姿勢には大きな影響を受けました。具体的なアドバイスをいただいたわけではないですが、医者としてのあるべき姿を、常に背中で教えてくださったと思います。実は私がTAVIの存在を知ったのも、山根先生のおかげなんです。
丹後まさに運命的な巡り合わせだったんですね。TAVIに対してはどんな思いを持たれましたか。
林田当時、心臓の「弁」の病気に対して、我々は打つ手を持っていませんでした。外科手術もできないし、医師として何もできないという無力感でいっぱいでした。そんな時にTAVIを知って、「これだ!」と思いました。それで、いてもたってもいられぬ思いで、言葉もままならないフランスへ留学することにしたんです。2009年のことでした。
丹後大きな決断でしたね。
林田ええ。フランスではInstitut Cardiovasculaire Paris Sud(ICPS=パリ南心臓血管研究所)にフェローとして入りました。フェローとは、要するに見習いのことなんですが。それでゼロの状態からTAVIの勉強を始めました。
丹後見習いということは、給料もナシですか。
林田そうです。だから貯金を取り崩す生活でしたね。でも、自分の好きなことを学ぶために渡ったわけですから、少しも辛いとは思わなかったですね。生活は切り詰めたけど、時々、LCCを利用して旅行も楽しんだりしていました。
丹後難しい環境も楽しんでいらしたのですね。現地での研究はいかがでしたか。
林田見習いでしたから、最初は雑用をこなすばかりでした。でも、働きぶりが認められたのか、翌年から次第にTAVIを実施させてくれるようになりました。というのも雑用をこなす傍らで、TAVIの症例を集めたデータベースを自力で作り始めたんです。当時、TAVIの手術では10人に1人が死亡していました。これでは危険すぎてとても日本には持ち帰れません。そこでちょうど同時期にフランスに留学していて出会った仲間、山本真功先生(現・豊橋/名古屋ハートセンター)、渡邊雄介先生(現・帝京大学)と協力して、患者さんのデータベースを立ち上げました。そして、日本人の視点からデータ発信、英文論文発表を行ったんです。そうした姿勢が認められて、TAVIをやらせてくれるようになったのでしょう。私としては、とにかく手ぶらじゃ日本に帰れないという、ただその思いで必死でした。
今、その志は、世界の医療の発展のために。
丹後3年間の留学を終えて、2012年に帰国されましたね。
林田留学中に第一術者100例を含む500例以上を経験しました。日本に帰る前、ICPSで私のボスだった先生が、私をTAVI指導医に推薦してくれました。もちろん日本人としての第一号です。これでやっと日本のために役立てる、日本の患者さんを救えるという思いでした。ただ、当時の日本では“TAVIは危険”というイメージが強くて、抵抗は大きかったんです。そこで私は日本各地の病院に足を運んで、TAVI導入に際し手技指導を行いました。
丹後先生が代表を務められているOCEAN-SHD研究会の貢献も大きいのでは。
林田そうですね。これは先ほどのフランス留学仲間3人で始めたデータベースづくりが前身の組織です。この研究会では我々の日々の臨床から得られた知見や新しい発見を世界に向けて発信し、世界中の医師と共有することで、世界中の患者さんの治療成績を向上させることを目的としています。
丹後視線は世界に向けられていると。
林田留学中に痛感したことなんですが、欧米の感覚からすると日本は極東の島国だから、声を大きくしないとなかなか耳を傾けてもらえないんです。対等のパートナーとして認めてもらうには、しっかり世界を意識して発信することが大切だと思いました。日本人には日本人ならではの手技の繊細さなどの特質がありますから、それを活かした知見を発信すれば、必ず世界中の医師に届くはずです。それは、留学でお世話になった恩返しにもつながるでしょう。もちろん私は医者ですから目の前の患者さんは絶対に救ってあげたい。と同時に、世界の医療の発展に貢献することにも大きなやりがいを感じています。
丹後今後が楽しみですね。最後にこれから医療の世界を目指す若い皆さんにメッセージをお願いします。
林田好きなことをとことん追求して欲しいですね。医者という仕事は、夜もゆっくり寝られないし、精神的に辛いこともたくさんあります。でも私は、医者という職業が好きだったから、徹夜も貧乏も、まったく苦ではありませんでした。大切なのは、自ら踏み出すという志です。若い皆さんも、ぜひやりたいと思うことをまっすぐに貫けばいい。自分を信じて進んで前に欲しいですね。
- ・若い時は何かに本気で打ち込んで欲しい
- ・好きな道を進んでいけば必ず行きたい場所に到達できる
- ・好きなことであれば、辛いこと、苦しいことも楽しんでやり過ごせる
- ・とことん打ち込む姿は、絶対に誰かが見てくれている
- ・目の前の患者さんと同様、世界への発信も重要
林田健太郎 プロフィール1975年、東京都生まれ。2000年、慶應義塾大学医学部卒業。同大学院進学。2004年、足利赤十字病院循環器内科。2007年、慶大医学部循環器内科助教。2009年、杏林大学医学部第二内科助教。仏・ICPS(パリ南心臓血管研究所)留学。日本人初のTAVI指導医資格を取得し、2012年より慶大医学部循環器内科特任講師。現在、慶應義塾大学医学部循環器内科専任講師、心臓カテーテル室共同主任。
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