たまたま選んだ小児科・新生児科の道
丹後星野先生のお父様も小児科の医師でいらしたそうですね。
星野陸夫先生(以下、星野)2年前に91歳で引退するまで、父は川崎の駅前で小児科医として開業していました。私が小学校1年生の時に開業したんですが、あの当時のことですから、特別なことがなくても普段から夜遅くまで患者さんを診ていました。夜中でも電話があったら玄関を開けて待っていると、お母さんがお子さんを抱いて駆け込んできたり。熱性けいれんでひきつけを起こしたお子さんのことは、今でも覚えています。私も子どもでしたから、死んじゃうんじゃないかってびっくりしたものでした。
丹後先生がこの道を選ばれたのも、お父様の影響が強かったからでしょうね。
星野いや、影響がないと言ったら嘘になるでしょうけれど、今でもなぜ自分が小児科医を選んだのかよくわからない。学生時代も、外科医がいいかなと思っていたくらいでしたから。もちろん小児科医になって後悔しているわけではないですし、昔に戻ってやり直そうと思っているわけでもありません。ただ、なぜこの道を選んだのか、自分でもわかっていないんです。
丹後大学は北里大学医学部でした。
星野ユニークな考え方の大学病院で、医局というものがなかったんです。当時は研修期間が5年間あり、その間、各科研修医の集まる大部屋で過ごしました。その3年目のときに、ここ「神奈川県立こども医療センター」(以下、こども医療センター)の新生児科に出向することになったんです。当時から「こども医療センター」では慢性の病気や障がいのある子どもたちを中心に診ていて、地域病院として1次から3次までの急性期医療を中心に行っていた北里大学とは、少し考え方が違うように思われていました。そんな事情もあって、こども医療センターが出向者を求めているという話が大学にあったときに、誰も行きたがりませんでした。誰も行かないなら、自分が行くか、ということで私が1年間出向し、研修医として過ごしたわけです。
丹後その後、正式に入職されたのですね。
星野ええ。1992年に「こども医療センター」に産科を加えて総合周産期センターができるので「来ないか」と声がかかり、大学も許してくれたので行くことにしました。それ以来の「こども医療センター」勤務です。ですから、小児科を選んだのも、「こども医療センター」で新生児を担当するようになったのも、たまたまのご縁という感じですね。
丹後「こども医療センター」に正式に入職したときは、“古巣に戻ってきた”という感じでしたか。
星野そうですね。そんな想いは確かにありましたね。
人の幸、不幸は障がいの重さで決まるのではない
丹後新生児科を担当されてよかったと思うのはどういうことでしょうか。
星野新生児に使える人工呼吸器が誕生したのが1970年代でした。それから2000年頃にかけてこの分野では様々なイノベーションやブレークスルーが起きたんです。例えば肺を広げて呼吸をしやすくするために使う肺サーファクタント製剤(界面活性剤)が使われるようになったのはその好例で、おかげで未熟児の生存率が飛躍的に高まりました。これは日本人の手による発明でした。
丹後かつては救えなかった命が、どんどん救えるようになっていったと。
星野その通りです。新生児科の診療はまさしくクリティカルなものばかりで、常に生死が隣り合わせのギリギリのところで行われています。医療技術の進歩で救える命が増えたおかげで、以前ならば助けられなかったような子が、当たり前のように健康になって退院していく姿を見られるようになったのは、新生児科の医師としてのいちばんの喜びですね。子どもがご家族と一緒に笑顔で帰って行き、そうして外来で再会できるのは、本当に嬉しいです。
丹後医師冥利に尽きるのでは。
星野「こども医療センター」には、先ほども言ったように病気や障がいのある子どもたちがたくさん運び込まれてきます。特に新生児科では産科と一緒に周産期の母子も診ていて、生まれつきの重い障がいを持ってこの世に生まれてくる子どももいます。
丹後それは非常に辛いですね。
星野しかし、人の幸、不幸は、障がいの有無で決まるのではないと患者さまたちから教えられました。たとえ重い障がいを持って生まれたとしても、笑顔で生きられる人生も待っていると思うのです。ですから私たちは、どんな重い障がいを持った子が誕生しても「おめでとう」と言える医療者でありたいと考えています。実際の診療の現場では、目の前の患者さまに対してその時点でできる精一杯の治療を尽くすだけですが、私たちの仕事は子どもたちの未来につながる仕事だと思っています。
患者さまの未来にも思いをいたらせたい
丹後先ほど、新生児科の診療はクリティカルとおっしゃいましたが、生死のかかったシリアスな状況に直面することも多いのですか。
星野もちろんです。
丹後医師としてのすべてが問われているような感じでしょうね。
星野はい、まさしくのめり込むような思いで診療に当たります。特に未熟児は体ができあがっていないうちにこの世に誕生するわけで、生まれてから3、4日が勝負です。若くて体力のあった頃は、私もその間はほとんど寝ないで付き添ったものでした。
“楽しい”と言うと語弊があるかもしれませんが、まさに目の前の患者さまにすべてをかけて取り組んでいるという、たいへんな充実感がありました。それが新生児科の医師ならではのやりがいでしょうね。
丹後まさに現場一筋の職人さんのようなイメージです。
星野実は、私は論文もほとんど書いていないし、博士号も持っていません。ただただ経験を重ねてきただけで、それを許してきてくれた環境に本当に感謝しています。若い頃は受け持ち医として年間50人ほど、それ以降は研修医と一緒にたくさんの新生児を診てきて、これまでにどれくらいの命と向き合ってきたでしょうか。
丹後印象深いお子さんもいらっしゃったのでは。
星野もちろん、たくさんいます。一生懸命にやっていれば、どうしても目の前のお子さんへの思い入れは強くなってしまいます。でも、ある時期からは意識して思い入れはあまり持たないようにしてきました。あまりに思い入れを持ちすぎると引きずって、次の患者さまと向き合いづらくなるからです。
丹後なるほど。新生児医療の課題については、どのようにお考えですか。
星野新生児科の医師は生まれたばかりの赤ちゃんを診るわけですから、その患者さまの40年後、50年後の未来にも責任を持っているんです。その事実は、とても重いと思います。学会には9歳までフォローするプログラムがあるものの、その後については追いかけるための決められた方法がありません。重い障がいを持って生まれてきた命を私たちは医師として救いますが、その患者さまは障がいとずっと向き合わなくてはならない。そのフォローを福祉や家族に委ねてしまっているのが現状です。
丹後大きなテーマですね。
星野ですから、私たちが命を救った患者さまがその後どんな人生を歩まれているのか、しっかりと現場にフィードバックしていく仕組みが必要ではないかと考えています。目の前の患者さまにのめり込むのもいいですが、その後の長い人生にまで思いをいたらせることのできる医療者でありたいと強く感じています。
丹後小児科に興味を持っている若い読者にメッセージをお願いします。
星野小児科や新生児科に対して、時々、「怖い」というイメージをもたれる方がいらっしゃるようです。小さな子どもたちは急変する事も多く、医師や看護師も、時には怒鳴るように大声でやりあっている事もあるかもしれません。でもそれは、時間との争いの中で重大な判断を下さなければならないことがあるためです。そういう状況でもお互いがそれぞれの意見を素直に言い合える、基本的にみんな仲がよくて、穏やかですよ。
小児科は未来を作っている現場なので、若いみなさんにぜひ関心を深めていただければうれしいです
- ・70年代以降の技術進歩で、救える命が劇的に増えた
- ・新生児医療はクリティカルな状況で行われることが多い
- ・だからこそ笑顔で退院していく子どもとご家族の姿が嬉しい
- ・重い障がいを持って生まれた子にも「おめでとう」と言える医師でありたい
- ・救った命の、その後の人生についても思いをいたらせたい
星野陸夫 プロフィール1960年、神奈川県川崎市出身
1986年、北里大学医学部卒業
現在、神奈川県立こども医療センター新生児科、地域連携・家族支援局局長
所属学会日本小児科学会
日本周産期新生児医学会
日本新生児成育医学会
日本小児呼吸器疾患学会
日本LD学会
発達性ディスレクシア研究会
主な資格日本小児科学会専門医、指導医
日本周産期新生児医学会専門医(新生児)、指導医(新生児)
新生児蘇生法(NCPR)講習インストラクター(I認定)
主な活動日本小児科学会小児医療委員会(委員長)
新生児蘇生法普及事業神奈川県推進委員会(神奈川NCPR委員会)
在宅療養児の地域生活を支えるネットワーク
神奈川県小児等在宅医療連携拠点事業
神奈川県医療的ケア児等支援者およびコーディネーター養成研修事業
星野陸夫先生の主な活動のご案内
所属機関名 | 神奈川県立こども医療センター |
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住所 | 〒232-8555 横浜市南区六ツ川 2-138-4 |
Web |
- 本原稿にある所属先、役職等の記載は2018年7月13日現在のものです
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